2017.10.03

伝統とは過去を受継ぎ革新を加え続けること

玉川基行(玉川堂七代目当主)

今回赴いた新潟県燕三条は、世界有数の金属加工産地。走る車窓からも様々な金物や金属類の工場、研磨や塗装の現場が目につき、その活性化が伺えた。それは途中、見学をさせてもらったホーロー加工工場からも感受。そこでは高い日本の職人技術力と地方工業活性の理由の一部を伺い知ることが出来た。
そんな中、今回メインで赴いた燕市内にある、200年以上の伝統を誇る鎚起銅器(ついきどうき:1枚の銅板を叩き縮め器状に成形する鎚起の技法を用いた銅製品)の玉川堂は、全国的にも著名な無形文化財の銅器製造メーカー。地元・燕を始め、銀座や青山に直営店を持つ、進展著しい会社だ。
歴代伝播に常に革新を加え、国内外から、あえて地場まで人々を呼び込み活性させるべく標榜している同社。今回のARTICLEでは、そんな玉川堂7代目・玉川基行氏を始め職人にも話を訊いた。何故いま燕三条の産業が活発なのか? 玉川堂が掲げる主義や理念とは? 7代目の話を聞くうちに様々ことに合点がいった。

「新品は、お客様に赤ちゃんをお預けしているようなもの。使い込んでこそ育っていく」

玉川基行(玉川堂七代目当主 以下、玉川)

━まずは「鎚起銅器」についてのご説明からいただけますか?

玉川

1枚の銅板を叩いて伸ばすのではなく、器状に成形する技術が「鎚起」です。この技術を用いて様々な製品を作っています。元々は200年ほど前に仙台の渡り職人がこの燕に銅器の製法を伝え、玉川堂の祖である玉川覚兵衛が銅器製造を開始しました。

━この鎚起銅器に於ける、玉川堂さんならではの特色を挙げるとするとなんでしょう?

玉川

叩く技術もさることながら、着色が特色です。銅の表面に錫を塗り、化学薬品などで酸化させて色をつけていきますが、世界無二の着色方法です。こちらが新品でこちらが約40年使い込んだものです。

左・新品、右・約40年使用。趣が明らかに異なる。

玉川

このように使い込んでいくうちに色合いが深まり、光沢も出てくるのが玉川堂製品の特長です。また、この湯沸は注ぎ口も溶接しておらず、1枚の銅板を叩いて、打ち起こし製作したものです。

━確かに、使い込んだ方に、より色合いや光沢も出ています。

玉川

命という文字がありますよね。「命」とは、「人」が「一」枚の銅を「叩」く。この言葉を組みわせると、「命」となります。我々は新品を完成品とは思っておらず、新品という赤ちゃんをお客様へお預けしているようなものだと思っています。使い込まないと命もダメになる。そういった意味では、我々職人のみならず、お客様も製品を作り上げる職人でもあるのです。玉川堂のコーポレートスローガンは「打つ。時を打つ。」ですが、これは職人だけが「打つ」のではなく、お客様も時を「打つ」。いわゆる銅器という命を大切に育てていただきたい、との想いが込められているのです。

自分たちで作った銅器を自分たちの手でお客様にお渡しする。それこそがモノづくりやブランド

━7代目は、どうしてこの玉川堂をお継ぎになろうと?

玉川

大学を卒業の際、修行のため、最初はどこかの企業に勤めようとも思いました。しかし当時、バブルが崩壊し、売上が3分の1に減少。玉川堂はいつ倒産するかわからないような危機的な状況でした。大学在学中、父が営業の最前線でやってくれとの言葉に、すぐに玉川堂に入ることを決意し、1995年、家業を受け継ぎました。その年は従業員の半分を解雇し、私もほとんど給料の無い状況の中、必死になって営業を行っていました。

━当時、会社の業績が悪かった原因は何だったのでしょう?

玉川

私の父(六代目)の代は新潟県の企業の記念品など、贈答品需要が多く、当時、それが売上の8割を占めていました。ところが、バブル期くらいからどんどん受注が減っていったのです。当時は花瓶や額など、飾り物が主流でした。

━そこから今のような業績への移行は?

玉川

ものづくりと同様、流通改革やブランディングも重要視してきました。私は「伝承」と「伝統」は違うと説いています。

━それは?

玉川

「伝承」は、親から受け継いだことを、繰り返し継いでいくこと。「伝統」はそれに革新を加え、その革新を連続させていくことであると認識しています。今の伝統工芸の世界は、99%が「伝承工芸」となっており、モノづくりを重要視しているだけとなっています。しかし、いつの時代も時代に応じた流通改革やブランディングがないと、ものづくりそのものも衰退していきます。ものづくりと経営を上手く合致させることが、本当の意味においての「伝統工芸」と考えています。

━では、そこから次に着目したのは?

玉川

贈答用ではなく、毎日の暮らしの中で使える生活道具へと方向性を変えました。200年前の初代の頃は、鍋・釜・ヤカンという毎日の暮らしの中に必須の日常雑器を製作していました。それが明治に入り、明治政府が外貨獲得のため、全国の地場産業に対し海外博覧会出品を奨励して以来、日常生活道具から工芸品への製作へと移行する風潮が生まれましたが、玉川堂もその頃から彫金などの要素を取り入れた工芸品の製作をはじめ、海外博覧会出品を目指すことにしたのです。

━そこからいま一度、日常生活道具の製作に立ち戻ってみたと。

玉川

一つのものを大切に使って、次の代も愛用していく。それが日本の文化ですし、いつまでも愛していただける銅器を作りたかったのです。父の代までは、地元の問屋へ卸し、そこからさらに百貨店問屋へ渡りようやく百貨店へと渡ったのですが、問屋商売では、流通が複雑でお客様の声が聞こえなかったのです。そこを解消するため、問屋商売をやめて、直接百貨店へ売り込みに行きました。問屋を外すことは商売道徳に反しており、地元ではタブーとされていましたが、私の代で玉川堂を絶対に潰すわけには行かず、世間のバッシングは覚悟の上で百貨店と直接取引を行い、実演販売によって、ようやくお客様と直接会話することができたのです。父の代では贈答品が8割でしたが、今は8割が自家需要となっています。

━当時、各百貨店はすんなり受け入れてくれたんですか?

玉川

日本橋の三越や新宿の伊勢丹などへアポなしで売り込みに行きましたが、当然すぐに常設販売のOKは出ず、実演販売を行いながら、少しづつ売上や信用を得ていきました。

━今の隆盛から見るに、ちょっと想像がつきません。

玉川

だけど、実演販売は行って良かったです。お客様との直接会話ができたことで、商品開発の幅が本当に広がりました。ぐい呑みやカップなどの酒器も、お客様の声を聞いて生まれた商品です。

今までの問屋商売では分からなかったことが、お客様と接することによって見えてきたことが、たくさん出てきました。

━対話の中に次へのアクションのアイデアやヒントもたくさんありそうですからね。

玉川

その為にも、これからは直営店でないと、さらなる会社の発展は難しいと考えています。「私たちが作った銅器を私たちのお店で。私たちが丁寧に販売する」というコンセプトを掲げ、今後は百貨店商売ではなく、直営店の展開を強化していきます。ものづくりからお客様へお渡しするまでを、全て自社で完結することが、ブランドの必須条件と思っています。お客様から愛着をもって代々ご愛用いただくためには、直営店の展開は不可欠です。

 

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