2019.10.08

アートがかき立てるアナザーストーリー

河島遼太郎(グラフィックデザイナー/アートディレクター)

LUCKAND Free Magazine #008のアートワークポスターを手掛けてもらったのは河島遼太郎。Nothing's Carved In StoneやTHE BACK HORN、Creepy Nutsや9mm Parabellum Bullet、Newspeak等々、主に音楽系のジャケットやポスター、グッズデザインを手掛けてきた、現在フリーで活躍するグラフィックデザイナー/アートディレクターだ。
永劫性を擁した独創性溢れるコラージュを主に、奥行きと感触観溢れる彼のアートワークの数々は、作品毎にまた新たなアナザーストーリーを派生させ、現物以上の付加価値を与えてくれる。
現在はデザインを生業としている彼だが、ここに至るまでの経緯はとてもユニーク。また、一見独創的に映るアイデンティティ溢れるデザインも、実はクライアント毎にきっちりと話し合い、様々なことを共有していく中で制作されていると語る。結果、その作品毎に付加価値をつけるべくアナザーストーリーの想起へと結びつかせてゆく、その創作信条も興味深い。
「ジャケットは決してデザイナーだけで作るものではない」そんな一家言でもありそうな活動を魅せる河島。そんな彼のここまでの経緯や仕事への姿勢、主義等を基に、あの独特の作風の事由を探る。

「自分のために美を追求することに疑問を持ってしまい、中退を決意した」

━河島さんは筑波大学の芸術系の学科を中退されて、以後、一旦は現在のデザイン関係とは全く違った職業におつきになられたそうですね。

河島

そうなんです。肉体労働系の仕事をしていました。大学在籍時代は、今はもう無くなってしまった学科なんですが、構成専攻というデザインとファイン(ファイン・アート=芸術的価値を専らにする活動や作品を指す概念)の融合みたいな学科を専攻していて。その学科の根底にあった「美」を追求する姿勢に、どこか自分がついていけず。卒論の手前でしたが中退したんです。

━あともう少しで卒業という、そこまで通っていて……。ある意味、凄い英断をそこには感じます。

河島

一度、休学をした時期があったんです。その際に先ほどの肉体労働で得た対価でDJ等をやりながら、「いい音楽・生き方とは何か?」みたいな求道的で実践的な格好いい大人たちに囲まれた現場で遊んでいて。いざ、大学に戻ってみたら、いわゆる、美そのものを本腰据えて追求することに、自分の落としどころが見つけられなくなってしまって。そこで思い切って大学を辞めて、その充実感のあった肉体労働系の仕事を本業にしてみたんです。

━そこから音楽やデザインのシーンへは?

河島

元々クラブで遊んでいたこともあり、音楽の方に自分の求めているものがあるような気がして、肉体労働の傍ら、夜はよくクラブ等で遊んだりDJをしたりしていました。そこでイベントのフライヤーやスケジュール表等を作ったりしていて。その関係から当時、茨城のパチンコチェーン店からデザイナーとして声がかかったんです。そこで広告制作や店内装飾、ポスター等のデザインを始めました。

━現在はかなり独特のテイストをお持ちですが、そこに至った経緯は?

河島

そのパチンコ店以降、上京して小規模の広告代理店に入り、そこから前職だったソニー・ミュージックソリューションズに入ったんです。

━ちなみにその広告代理店はどうしてお辞めに?

河島

自分の居た広告代理店は、ほぼ毎日、新しいお客様と仕事をする感じだったんです。その前の会社は自社の作り物だったんですが、今度は毎日「初めまして」からの人と一緒に仕事をしなくてはならなくなった。そこで即、「そこに自分をどう落とし込んだらよいか?」が必要となってきて。それがなかなか上手くチューニングが合わなくて。そんな中、ある日、クリーニング屋を営んでいるおじいさんから、お店の織り込みの広告の相談を受けたんです。「今まではこれだから」と、それまで自分たちでデザインした手書きの1色刷りのチラシを見せてもらって、「これよりもカッコ良くしたい」とのリクエストを受けたんです。でも、そのチラシを見た時に、自分がどんなものを提案しても、それにはかなわない気がしたんです。手作りだし、長年やってきて馴染んでいるし、愛情もこもっているしで。それを綺麗にしてクリーニング屋っぽく見せたものを作っても、到底かなわない。そこで、やはり自分はインハウスの仕事が出来る会社で働くべきだと確信し、まずはソニー・ミュージックソリューションズに派遣社員として入ったんです。

━そこに入られたキッカケは?

河島

そこまでやってきて、やはり僕は音楽が大好きなことに改めて気づいたんです。そこから、「やはり音楽に携われる仕事がやりたいし、それが出来るのであれば、歯を食いしばってでもやろう!」と決意したんです。

━そこで大手を選んだのも意外です。

河島

僕がこれまでやってきたデザインって、フライヤーやポスターといった非常にパーソナルなものが多かったんです。いわゆる何十人に向けての深い発信だったというか。そんな中、メジャーで何十万枚も大量生産されるデザインの強さって何だろう?との興味もあり入りました。なので、最初は自分のテイストなんて無かったし、分からなかったですよ。

━今はかなりしっかりと河島さん独自の世界観をお持ちなので、それは意外でした。

河島

その自分の個性を出せるようになったキッカケがNothing’s Carved In Stoneだったんです。僕がまだ入って2年目で、アートディレクター(AD)も任されていない時期で。たまたま彼らがエピックレコードからメジャーデビューするタイミングでした。若手で色のついていないデザイナーということで、レーベルの方に声をかけてもらったんです。初めてのAD仕事ということで、自分の出来るスキルを総動員して作りましたね。で、何パターンか出して、そこで採用されたのがアルバム『Silver Sun』のジャケットだったんです。

Nothing’s Carved In Stone『Silver Sun』ジャケット写真

━私も河島さんのデザインの歴史を辿るうちに、Nothing’s Carved In Stone以前/以後があるようにお見受けしてました。

河島

かもしれません。その辺りは当時、彼らの音に引っ張られたというのが大きかったんでしょう。それまでロックのデザインって携わったことがなくて。いわゆるディストーションやファズ、そこに触れた新鮮さも含めて、以後、ああいったテクスチャーも出せるようになったのかなって。

━ちなみに河島さんがお仕事をする/しないの基準って何かあったりするんですか?

河島

いや、ほとんどないです。スケジュール都合以外は。依頼されるってことは僕とやることで何かしら上手くいく期待を持っていただいてのことだと察し、そこに賭ける意味も含めて基本全てお受けしています。

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