2018.12.16

染屋の111年、そして200年を迎えるために

水野弘敏(「水野染工場」「染の安坊」代表取締役)

昨今、手ぬぐいの利便性などが見直され、今の時代に合わせた様々な手ぬぐいを流行発信地であるデパートやショッピングセンターでよく見かけるようになった。そんな中、自社工場を持ち、オールインワンで手ぬぐいを始めとした染物を作り続けている工場がある。明治40年創業・北海道旭川に自社工場を持つ株式会社「水野染工場」だ。
この歴史ある染工場は2004年、一枚一枚職人の手作業により染められている本染め手ぬぐいの専門店「染の安坊」を立ち上げた。創業111年を迎え、守ることなくこの先200年を迎えるため戦い続ける染屋の、これまで辿ってきた発展の歴史と今後の展望を訊いた。

「一人一人が主体的に動いて仕事をすれば自ずと成長していく」

―まずは「水野染工場」、「染の安坊」についてのご紹介をお願いします。

水野弘敏(以下、水野)

水野染工場は明治四十年創業で、僕が四代目になります。元は富山でやっていたのですが、当時富山から北海道へ移住した人が多く、その人たちから北海道に染屋がないからやらないか、という声を受けて明治四十年に北海道・旭川で創業したのが始まりです。僕の代になってから、2004年に浅草でお店をやろうと思い、移ってきました。

―店舗を始めようと思ったんですね。

水野

そうですね。それまで店舗はなく、いわゆるメーカーでした。当時、メーカーは小売をやってはいけないというような暗黙の了解みたいなものがあったので、社名も変えて出てきたということです。

―「水野染工場」から「染の安坊」を生み出しブランド化した、ということなのですね。ブランディングについてのポイントを教えていただけますか?

水野

まず名前の由来として、「坊」というには間・部屋といった意味もあるので、「染めの安らぎの場」を作ろうというコンセプトでした。東京の場合でもそうですが、染物の文化というのは昔、庶民にとって身近なものでした。それが西洋文化、洋服に移り変わっていく中で今一度、染物を広めようと思ったんですね。また、立ち上げ当初、浅草に類似の染物業者が24社あったのですが、それほど浅草と染物は強い結びつきがあり、そういった激選区でお店を出せばお客さんも寄って来てくれると思いました。

―敢えてそういった激選区に行くってすごい勇気ですよね。

水野

一般には全く知られていなかったので、新参者が何もないところに出ていっても無理だと思い、そういったところに店を出したわけです。

―なるほど。御社のスタイルとして、図案、染色、縫製までをオールインワンで行なっていますよね。

水野

例えば、他にも染屋の多い京都でいうと、下絵を描く職人さん、糊置きをする職人さん、染めをする職人さん、蒸し水洗する職人さん、縫製をする職人さんと工程ごとにバラバラになっていることがあります。このような分業の場合、まずは納期が長くかかってしまうということがあります。もう一つ、ミスなどが起こるとお互いのせいにしてしまうことがある。自社で一貫生産をすれば、どこでミスが起こってもちゃんと原因を追求できるので良いものが作れますよね。

―そうですね。その分、「人」が必要になってくると思いますが、それぞれ人を育てるのも大変そうですよね。

水野

うーん……、人を育てるのを大変と思ったことはない、ですね。うちの店舗の店員さんでも工場の職人さんも、自分が主体的に動くほうが好きなんです。僕もそうですが指示されたことをやるような仕事だと飽きてしまう。一人一人が主体的に動いて仕事をすれば自ずと成長していくので、そういった社風を作るのと、環境を与えるのが僕の役割ですかね。

―素晴らしいですね。他にもこだわりや大切にしていることはありますか?

水野

作っているのはモノであり商品ですが、それを染めているのも販売しているのも人間なので、地域と周りの人に愛される、ということですね。

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